『大イスラエル』の虚構:宗教的正統性の系譜と政治的現実の分析

大イスラエル構想の妥当性と宗教的正統性.md • Render-only / No edits

『大イスラエル』の虚構:宗教的正統性の系譜と政治的現実の分析

序論 — 問いの所在

本報告書は、「大イスラエル」(ヘブライ語: ארץ ישראל השלמה, Eretz Yisrael HaShlema, 「完全なイスラエルの地」)という概念の妥当性を、その「宗教的正統性」の系譜と歴史的展開の観点から徹底的に検証することを目的とする。この概念は、単一の明確な定義を持つものではなく、聖書的解釈と政治的文脈に応じて多様な意味合いを帯びる、領土回復主義的な野心のスペクトルとして理解されなければならない 。その定義は、狭義には1967年の第三次中東戦争以降のイスラエル国家とパレスチナ被占領地(ヨルダン川西岸、ガザ地区)を合わせた領域を指し、広義には聖書に記述された「エジプトの川から大河ユーフラテスまで」に及ぶ広大な地域を指す 。

本稿の分析は、利用者から提示された「『大イスラエル』の虚構の妥当性」および、それに伴う「崩壊した『宗教的正統性』の是非」という問いに正面から向き合うものである。したがって、本報告書は「宗教的正統性」を自明の前提として受け入れるのではなく、歴史的・政治的に構築された一つの「主張」として捉え、その成立過程と論理的脆弱性を批判的に分析する。

この目的を達成するため、本報告書は歴史神学的分析手法を採用する。まず、概念の神学的淵源である旧約聖書の記述を多角的に検討し、そこに内在する複数の矛盾した境界線を明らかにする。次に、19世紀ヨーロッパにおける近代ナショナリズムの勃興期に、この古代の宗教的概念が如何にして世俗的な政治イデオロギーとして「再発明」されたかを論じる。そして、バルフォア宣言からイスラエル建国、1967年戦争に至るまでの歴史的イベントを時系列に沿って追跡し、イデオロギーが如何にして領土的現実に転換されていったかを詳述する。最終的に、国際法、イスラエルの「新歴史家」や入植者植民地主義理論などの批判的視座を導入し、この概念が現代のイスラエル・パレスチナ紛争において果たす役割を結論づける。

この分析を通じて明らかになるのは、「大イスラエル」という概念の持つ戦略的な曖昧性である。この言葉は、国際的な批判に晒される際には「反ユダヤ主義者が利用する陰謀論」として退けられる一方で 、ベンヤミン・ネタニヤフ首相のような指導者によって語られる際には「歴史的・精神的使命」として肯定される 。この意味論的な弾力性こそが、このイデオロギーがイスラエル主流政治(ヨルダン川西岸への入植)と宗教的過激派の夢想(ナイルからユーフラテスまで)の両方の領域で同時に機能することを可能にしている。したがって、「大イスラエル」の「虚構」を解体するためには、単一の主張を論破するのではなく、その曖昧さ自体が政治的ツールとして機能している多層的な物語を解き明かす必要がある。

「約束の地」の神学的淵源と多様な解釈

「大イスラエル」構想がその究極的な正統性の源泉として依拠するのは、旧約聖書における「約束の地」(ヘブライ語: הארץ המובטחת, Ha'Aretz HaMuvtahat)の概念である。しかし、聖典を詳細に分析すると、この「約束」が単一の、明確に定義された地図を提示しているわけではなく、むしろ複数の、時には相互に矛盾する地理的記述と神学的条件を含んでいることが明らかになる。近代の政治イデオロギーが主張するような、絶対的かつ無条件の領土権は、聖書テクストそのものからは導き出せない。

アブラハム契約(創世記15章)

「約束の地」に関する最も広範で根源的な記述は、創世記15章に見られる、神がアブラム(後のアブラハム)と結んだ契約である。この契約は、神が一方的に履行責任を負う無条件契約として特徴づけられる 。ここで約束された土地は、「エジプトの川から大河、ユーフラテス川まで」と定義され、カイン人、ケナズ人、カドモン人、ヘト人、ペリジ人、レファイム人、アモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人といった数多くの先住民族を排除することが前提とされている 。

この記述は、後の「大イスラエル」の最大版図の根拠として頻繁に引用される。しかし、神学的解釈は一様ではない。第一に、この約束はアブラハムの「子孫」に対してなされており、ユダヤ教の伝統ではイサクとヤコブの系譜に限定されるが、テクスト自体はアブラハムのすべての子孫、すなわちイシュマエルや他の息子たちの子孫をも含むと解釈する余地を残している 。第二に、キリスト教神学、特に使徒パウロの解釈では、アブラハムの真の「子孫」とは血統ではなく信仰によって定義される単一の存在、すなわちキリストであり、約束された相続財産は物理的な土地ではなく、霊的な救済であると再定義される 。これらの解釈は、創世記の記述を特定の民族集団による排他的な領土権の根拠とすることに、神学的な異議を唱えるものである。

カナンの境界(民数記34章)

創世記が示す広大な帝国的ビジョンとは対照的に、民数記34章は、エジプトから脱出したイスラエルの民が征服し、相続すべき土地の境界を極めて具体的に記述している 。この土地は明確に「カナンの地」(

Eretz Kna'an)と呼ばれ、その境界は南はツィンの荒野と死海の南端から、西は地中海、北はホル山からレボ・ハマト、東はヨルダン川までと、詳細に定められている 。

この記述が重要なのは、それが創世記の約束よりもはるかに限定的な領域、すなわちヨルダン川西岸の土地を指している点である。これは、「約束の地」の聖書的根拠とされるテクストの内部に、第一の大きな矛盾が存在することを示している。民数記の境界線は、「エジプトからの脱出者が相続する地」として特定されており、アブラハムへの壮大な約束とは異なる、より現実的な入植の範囲を示唆している 。

預言者の幻視(エゼキエル書47章)

バビロン捕囚後の時代に書かれたエゼキエル書47章は、未来に回復されるイスラエルの地の境界に関する第三のビジョンを提示する 。この境界線は、民数記の記述と類似している部分もあるが、その神学的文脈は大きく異なる。エゼキエルの幻視は終末論的なものであり、回復された土地はイスラエルの十二部族だけでなく、彼らの間に住む「寄留者(異邦人)」にも相続財産として分け与えられるとされている 。この包括的なビジョンは、血統に基づく排他的な所有権という概念に挑戦し、土地の相続に倫理的な次元を加えている。

条件付きの賜物としての土地(申命記・レビ記)

「大イスラエル」の宗教的正統性を根底から揺るがす最も重要な神学的対抗言説は、土地の所有が神の律法への服従という条件に結びついているという思想である。申命記やレビ記の随所には、イスラエルの民が約束の地に住み続けることができるのは、彼らが神との契約を忠実に守る場合に限られると繰り返し強調されている 。

特にレビ記18章25節では、先住のカナン人が土地から追放されたのは、彼らの不道徳な行いによって「土地が汚され」、その結果「土地がその住民を吐き出した」からだと説明される 。そして、イスラエルの民に対しても、もし彼らが同様に不義を行うならば、土地は彼らをも「吐き出す」であろうと警告される 。ここでの土地は、単なる所有物ではなく、それ自体が聖性を持ち、住民に高い倫理的要求を課す主体として描かれている。この思想は、土地の相続を無条件の「権利」としてではなく、条件付きの「責任」として捉え直すものであり、正義や公正を無視した領土の主張が、聖書そのものの倫理観と矛盾することを示唆している。

離散(ディアスポラ)とラビ文献における「エレツ・イスラエル」

紀元70年の第二神殿破壊以降、ユダヤ人の生活の中心は「エレツ・イスラエル」(イスラエルの地)の外、すなわちディアスポラへと移った。この長い離散の時代において、「エレツ・イスラエル」の概念は、物理的な領土から、精神的・象徴的な中心地へと昇華された 。土地の聖性(

kedushat ha-aretz)は、日々の祈りや祭儀の中で繰り返し想起され、メシアによる贖罪と帰還への憧憬の対象となった 。この時代のラビ文献において、「エレツ・イスラエル」は地理的な場所と結びつきつつも、高度に象徴的かつ神話的な地位を占める神学的概念であり、具体的な国境線を定める政治的プログラムではなかった 。この歴史的な精神化のプロセスは、後に近代シオニズムがこの概念を政治的に再領土化しようとした試みとは、著しい対照をなしている。

表1:旧約聖書における「イスラエルの地」の境界線に関する記述の比較

聖書箇所約束の対象地理的記述文脈と特徴
創世記 15:18-21アブラハムの子孫(広義)「エジプトの川から大河、ユーフラテス川まで」神による無条件の契約。広大で帝国的な版図を示唆。
民数記 34:1-13エジプトからの脱出者ヨルダン川西岸の「カナンの地」。具体的な境界線を詳細に記述。相続すべき土地の具体的範囲を画定。創世記より大幅に限定的。
エゼキエル書 47:13-20イスラエル十二部族と寄留者民数記と類似するが、東の境界がヨルダン川に固定。終末論的な回復の幻視。異邦人にも相続権を認める包括性を持つ。
申命記 11:24イスラエルの民「あなたがたの足の裏が踏む所は、ことごとくあなたがたのものとなる」律法への服従を条件とする約束。境界は流動的で、征服と結びついている。

Google スプレッドシートにエクスポート

この比較から明らかなように、聖書は「約束の地」について単一の、首尾一貫した地図を提供していない。近代の政治運動が特定の「聖書の境界線」を主張する時、それは必然的に、これらの多様で矛盾したテクストの中から自らの目的に合致するものを選択的に解釈する行為となる。

聖書における「約束の地」の神学的概念は、静的な所有権の証書ではなく、本質的に「プロセスと条件性」の物語である。それは、約束(創世記)、旅(出エジプト記)、入植と所有の条件となる律法の授与(レビ記・申命記)、そして征服と定住(ヨシュア記)という一連の物語的連鎖の中に位置づけられている 。この物語の核心には、不正を働けば土地から追放されるという警告があり、土地の聖性は住民に倫理的・道徳的な義務を課す 。

しかし、「大イスラエル」を掲げる近代の政治イデオロギーは、この物語的連鎖から「土地の授与」という最終結果だけを抽出し、それを絶対的かつ無条件の権利として主張する 。この文脈からの切り離しこそが、古代の「宗教的」概念を近代の「政治的」イデオロギーへと転換させる操作である。それは、概念に内在する神学的な重荷(正義と公正の実践という義務)を放棄し、その政治的な利益(領土への主張)のみを保持する行為に他ならない。したがって、「宗教的正統性」の崩壊とは、聖書の記述を否定することではなく、この政治イデオロギーが、自らが依拠すると主張する聖典そのものの複雑な神学的枠組みを、如何に根本的に歪曲し、転覆させているかを明らかにすることにある。この意味で、このイデオロギーは、自らが成就すると標榜するテクストそのものに対する一種の異端であるとさえ言えるだろう。

近代シオニズムによる「エレツ・イスラエル」の政治的再発明

19世紀後半のヨーロッパで誕生した近代シオニズムは、古代の宗教的概念であった「エレツ・イスラエル」を、世俗的なナショナリズムの目標として再定義し、政治的な領土回復運動へと転換させた。このプロセスは、単なる伝統の継承ではなく、歴史家エリック・ホブズボームが言うところの「伝統の創造(invented tradition)」、すなわち近代的な目的のために過去を再構築する行為であった。

ヨーロッパ的文脈:ナショナリズムと反ユダヤ主義

政治シオニズムの出現は、19世紀ヨーロッパの二つの大きな潮流、すなわち民族自決を掲げるナショナリズムの勃興と、それに伴う人種主義的な反ユダヤ主義の激化という文脈の中に位置づけられる 。フランスにおけるドレフュス事件は、ユダヤ人の同化がいかに困難であるかをテオドール・ヘルツルをはじめとする多くのユダヤ人知識人に痛感させ、彼らを独自の国民国家建設へと向かわせる決定的な契機となった 。シオニズムは本質的に、ヨーロッパで発生した「ユダヤ人問題」に対する、ヨーロッパ的なナショナリズムの論理を用いた政治的解決策の模索であった。

ヘルツルと政治シオニズム

テオドール・ヘルツルが1896年に著した『ユダヤ人国家』(Der Judenstaat)は、この新しい運動の理論的基礎を築いた 。ヘルツルの構想は、宗教的な救済や預言の成就ではなく、あくまで世俗的かつ政治的なものであった。彼は、ユダヤ人を「正常化」し、「他のすべての国民と同様の国民」にするために、主権国家の設立が不可欠であると説いた 。その候補地として古代の故国パレスチナが選ばれたのは、離散したユダヤ人コミュニティを動員するための歴史的・感情的な結びつきを利用するためであった。

「伝統の創造」と国民神話の構築

シオニズムは、近代的な国民国家を建設するために、統一された国民意識を創出する必要があった。ここで、エリック・ホブズボームの「伝統の創造」という概念が極めて有効な分析の枠組みを提供する 。シオニズムの思想家たちは、古代イスラエル王国と近代ヨーロッパのユダヤ人を直接結びつける、直線的な歴史物語を構築した。この物語は、2000年近くにわたるディアスポラの多様な歴史を一つの「追放と帰還」の物語に単純化し、あたかもユダヤ人が歴史を通じて単一の民族・国民として存在し続けてきたかのような印象を創り出した 。

この「創造された伝統」は、二つの重要な機能を果たした。第一に、世界中に離散し、言語も文化も異なる多様なユダヤ人コミュニティに対し、「我々は一つの国民である」という想像の共同体を提示し、国家建設プロジェクトへの動員を可能にした 。第二に、「歴史的権利」という主張を掲げることで、パレスチナへの入植と国家建設を国際社会に対して正当化した。この過程で、シオニズムはディアスポラの歴史を否定的に捉え(ヘブライ語: שלילת הגלות,

shlilat ha-galut, 離散の否定)、克服すべき異常な状態と見なした 。

国民史への批判(シュロモ・ザンド)

イスラエルの歴史家シュロモ・ザンドは、その著書『ユダヤ人の起源―歴史は本当に正しいか?』(原題: The Invention of the Jewish People)において、このシオニスト的な国民史をさらに根本から批判した。ザンドは、古代ユダヤ人がローマによって故国から追放されたという「追放の神話」自体が歴史的根拠に乏しく、現代のユダヤ人の多くは、古代イスラエル人の子孫ではなく、ハザール王国の住民など、歴史の各段階でユダヤ教に改宗した多様な人々の末裔であると主張した 。ザンドの学説は学術界で多くの批判を浴びているが、彼の議論は、シオニズムが依拠する民族的・血統的連続性という概念がいかに構築されたものであるかを浮き彫りにする上で示唆に富んでいる。

修正主義シオニズムの挑戦

ヘルツルやハイム・ヴァイツマンに代表される主流派(後の労働シオニズム)が、国際情勢を鑑み、当初はパレスチナの一部での国家建設もやむなしとする現実主義的な姿勢を取ったのに対し、ゼエヴ・ジャボティンスキー率いる修正主義シオニズムは、より強硬で領土的に最大主義的な立場を鮮明にした 。彼らは、イギリス委任統治領パレスチナの全域、すなわちヨルダン川の東西両岸を含む領域を「エレツ・イスラエル」と見なし、その完全な領有を主張した。彼らのスローガン「ヨルダン川に二つの岸、こちらは我らのもの、あちらもまた然り」は、この野心を端的に示している 。この修正主義の潮流は、後のイルグンやレヒといった武装組織を経て、メナヘム・ベギンが率いるヘルート党、そして現在のリクード党へと至る系譜を形成し、「大イスラエル」イデオロギーの最も直接的な政治的継承者となった 。

近代シオニズムは、その核心において一つのパラドックスを抱えている。それは、本質的に近代的でヨーロッパ的なナショナリズム運動でありながら、パレスチナにおける植民地主義的な主張を正当化するために、古代的で非ヨーロッパ的な起源を持つかのように見せる必要があったという点である。その成功は、離散した人々を動員し、列強を説得するに足るだけの説得力を持つ「創造された伝統」を構築することにかかっていた。この伝統は、ユダヤ人の多様な歴史を「追放と帰還」という単一の物語に収斂させると同時に、パレスチナの先住民の存在とその歴史を「人のいない土地」という言説によって抹消するものであった 。

したがって、シオニズムの「宗教的正統性」とは、ユダヤ教の伝統の有機的な継続ではなく、世俗的なナショナリズムと植民地主義的な目標に奉仕するために、宗教的象徴を近代政治が流用した結果なのである。近代的でありながら古代を装い、ヨーロッパ的でありながら非ヨーロッパの土地に対する固有の権利を主張するというこのパラドックスこそ、本報告書が解き明かそうとする「虚構」の中心をなすものである。

理念から国家へ — 委任統治、分割、そして戦争

20世紀前半、近代シオニズムの理念は、大英帝国の地政学的利害と国際社会の承認を得て、具体的な国家建設プロジェクトへと移行した。このプロセスは、パレスチナの先住民族の意向を無視する形で進められ、最終的には国連による分割案と、それに続く戦争による強制的な現実の創出へと帰結した。この時期の出来事は、「大イスラエル」の理念が、宗教的言説から軍事力によって画定される領土的現実へと変貌する決定的な段階であった。

バルフォア宣言(1917年)

1917年11月2日にイギリスの外務大臣アーサー・バルフォアがライオネル・ウォルター・ロスチャイルド卿に送った書簡、すなわちバルフォア宣言は、シオニズム運動にとって画期的な出来事であった。この宣言は、イギリス政府が「パレスチナにおけるユダヤ人のための民族的郷土(a national home for the Jewish people)の設立に好意的に鑑みる」と表明したものであり、シオニストの目標に初めて主要な世界的大国のお墨付きを与えた 。

しかし、この宣言の動機は神学的な信念ではなく、第一次世界大戦の遂行という極めて現実的な帝国主義的利害にあった 。イギリスは、アメリカ、ロシア、ドイツのユダヤ人コミュニティの支持を得ることで、連合国側の戦況を有利に導こうと目論んでいた 。さらに、戦後のオスマン帝国領の分割を見据え、スエズ運河へのアクセスを保護する上で、親英的なユダヤ人勢力をパレスチナに確立することは戦略的に重要であった 。

宣言には、「パレスチナに存在する非ユダヤ人コミュニティの市民的および宗教的権利が害されることがあってはならない」という留保条件が付されていたが、彼らの政治的・民族的権利については何も言及されていなかった 。この内在的矛盾は、その後のパレスチナにおける紛争の火種を内包していた。

イギリス委任統治

第一次世界大戦後、国際連盟はパレスチナの統治をイギリスに委任した。1922年に正式に承認された委任統治条項は、バルフォア宣言の文言をその中核に据え、イギリスに対しユダヤ民族郷土の設立を促進する義務を課した 。条項の前文は「ユダヤ人とパレスチナとの歴史的関係」を承認し、彼らの民族郷土を「再建する」根拠を認めるものであり、シオニズムが構築した「創造された伝統」を国際法文書の中に組み込むものであった 。

この法的枠組みの下で、ヨーロッパからのユダヤ人移民が大規模に流入し、ユダヤ人コミュニティ(イシューブ)は独自の政治・経済・社会制度を次々と構築していった 。一方で、パレスチナのアラブ系住民は、自決権を否定され、土地と資源を奪われることへの抵抗を強め、暴動やストライキが頻発した。イギリスは、ユダヤ人とアラブ人という二つのナショナリズムの板挟みとなり、矛盾した政策に終始した。

1947年国連分割決議(181号)

第二次世界大戦後、疲弊したイギリスはパレスチナ問題を国連に委ねた 。国連パレスチナ特別委員会(UNSCOP)の調査を経て、1947年11月29日、国連総会はパレスチナをアラブ国家とユダヤ国家に分割し、エルサレムを国際管理下に置くという分割案(決議181号)を採択した 。

この決議は、ユダヤ人指導部には受け入れられたが、パレスチナ人およびアラブ諸国の指導者からは即座に拒絶された 。彼らの拒絶の理由は、第一に、国連が先住民族の自決権を無視して彼らの土地を分割する権限を持たないという原則的なものであった 。第二に、分割案そのものが著しく不公平であった。当時、パレスチナの人口の約3分の2を占めていたアラブ人に領域の約42%しか割り当てられなかったのに対し、人口の3分の1に過ぎず、土地所有も7%未満だったユダヤ人に対し、沿岸部の肥沃な土地を含む領域の約56%が与えられたからである 。

1948年戦争とナクバ

国連分割決議の採択直後から、パレスチナではユダヤ人民兵組織とパレスチナ人武装勢力との間で内戦が激化した。イスラエルの「新歴史家」たちの研究によれば、1948年5月15日のイスラエル独立宣言とアラブ正規軍の介入以前から、シオニスト民兵組織は「プラン・ダレット」と呼ばれる作戦に基づき、パレスチナ人コミュニティへの計画的な攻撃と住民の追放を開始していた 。

1948年5月14日、イギリスの委任統治が終了すると同時に、ダヴィド・ベン=グリオンはイスラエル国家の独立を宣言した。翌日、エジプト、トランスヨルダン、シリア、レバノン、イラクの軍隊がパレスチナに侵攻し、第一次中東戦争が勃発した。

戦争の結果は、シオニスト運動の圧倒的な軍事的勝利に終わった。1949年の休戦協定により、イスラエルは旧委任統治領パレスチナの78%を支配下に置き、国連分割案でユダヤ国家に割り当てられた領域を大幅に超える領土を獲得した 。残りのヨルダン川西岸(東エルサレムを含む)はトランスヨルダンが、ガザ地区はエジプトがそれぞれ管理下に置いた。

この戦争は、パレスチナ人にとっては「ナクバ」(大災厄)として記憶されている。75万人以上のパレスチナ人が難民となり、故郷から追放されるか、あるいは避難を余儀なくされた 。500以上のパレスチナ人の村が破壊され、その多くは跡地にユダヤ人の町や森が作られた 。この大規模な民族浄化は、パレスチナ人社会を崩壊させ、今日まで続く難民問題の根源となった。ベニー・モリスやイラン・パペといった「新歴史家」は、この追放が戦争の偶発的な結果ではなく、ユダヤ人多数派国家を樹立するための意図的な政策であったことを、機密解除された公文書に基づいて論じている 。

1948年の戦争は、「大イスラエル」イデオロギーが直接的に実現されたわけではない。実際、ベン=グリオンのような現実主義者は、公には国連分割案を受け入れていた。しかし、彼は私的な書簡で、分割は「全土の解放」に向けた第一歩に過ぎないとの認識を示していた 。この戦争の結果は、イスラエルの国境が国際的な合意や「宗教的正統性」によってではなく、軍事力による「既成事実(

faits accomplis)」の創出によって決定されるという、極めて重要な先例を確立した。国連が提案した境界線ではなく、1949年の休戦ライン(グリーンライン)が、イスラエルの事実上の国境となった。この経験は、安全保障上の必要性を名目とし、軍事力によって達成された領土拡大を正当化する政治文化を醸成した。1948年の戦争が実践したこの原則は、1967年の次の大きな軍事的勝利の後、「大イスラエル」という休眠状態にあったイデオロギーの種子が再び蒔かれるための、肥沃な土壌となったのである。

1967年第三次中東戦争 — 領土拡大とイデオロギーの復活

1967年6月に勃発した第三次中東戦争(六日間戦争)は、イスラエルの歴史、ひいては中東全体の地政図を根底から覆す分水嶺となった。この戦争におけるイスラエルの圧倒的な軍事的勝利は、単なる領土の拡大に留まらず、1948年以来 dormant(休眠状態)にあった「大イスラエル」のイデオロギーを劇的に復活させ、それを実現するための入植運動に強力な推進力を与えた。

戦争と地政学的帰結

戦争は6日間という短期間で終結し、イスラエルはエジプトからガザ地区とシナイ半島、ヨルダンからヨルダン川西岸(東エルサレムを含む)、シリアからゴラン高原を占領した 。これにより、イスラエルの支配領域は戦前の3倍以上に拡大し、脆弱な小国から、否定しがたい軍事的優位性を持つ地域大国へと変貌を遂げた 。この勝利は、アラブ世界に対し、イスラエルを軍事的に破壊することは不可能であるという現実を突きつけ、イスラエルの戦略的縦深性を確保した。

領土最大主義の復活

この劇的な勝利は、イスラエル国内、特に宗教的ナショナリストの間で、世俗的な軍事的成功としてではなく、メシア的救済の時代の到来を告げる神の介入として解釈された 。1948年以降、政治的言説の表舞台から後退していた「大イスラエル」のイデオロギーが、この新たな現実の中で息を吹き返したのである 。

特に、嘆きの壁を含むエルサレム旧市街、ヘブロンの族長たちの墓、そして聖書に頻出する「ユダヤ・サマリア」地方といった歴史的・宗教的に重要な地を物理的に支配下に置いたことは、これまで抽象的な理念であった「エレツ・イスラエル」に、触知可能なリアリティを与えた 。聖書の物語の舞台が現実の風景として目の前に広がり、イデオロギーは具体的な領土と分かちがたく結びついた。

入植運動の誕生

この熱狂的な雰囲気の中で、「大イスラエル運動」(1967年7月結成)や、その後に続く「グッシュ・エムニム」(忠誠のブロック)といった急進的な宗教ナショナリスト団体が誕生した 。彼らは、メシア思想とナショナリズムを融合させ、新たに占領した領土へのユダヤ人入植を、単なる安全保障政策ではなく、神の約束を成就させるための宗教的義務であると主張した。彼らは政府の許可を待たずに、あるいは政府の暗黙の了解のもと、西岸地区やゴラン高原に入植地を建設し始めた 。

アロン・プランと労働党政権の政策

当時政権を担っていた労働党でさえ、この領土拡大の現実に無関係ではいられなかった。イーガル・アロン副首相が提唱した「アロン・プラン」は、パレスチナ人人口密集地を除くヨルダン渓谷や大エルサレム圏などの戦略的要衝をイスラエルに併合するという構想であり、安全保障上の理由から入植を正当化した 。この計画は、後のリクード政権下でのイデオロギー主導の入植とは動機が異なるものの、占領地に民間人を入植させるという政策の先鞭をつけ、入植地建設の既成事実化に道を開いた。

右派の台頭

1967年以降のイスラエル政治は、地殻変動ともいえる変化を経験した。それまで、建国の現実を受け入れ、政治の周縁に追いやられていた修正主義シオニズムの継承者であるメナヘム・ベギン率いる右派政党(後のリクード)が、「解放された故国」であるユダヤ・サマリアの領有を掲げ、ナショナリズムの主要な担い手として台頭した 。左派が「領土と平和の交換」を模索する中で、右派は領土不分割を主張し、愛国心の体現者と見なされるようになった。この潮流は、1977年の選挙でリクードが歴史的な勝利を収め、初めて政権の座に就くことで結実し、イスラエルの国家方針を決定的に変えることになった 。

1967年の戦争は、世俗的なシオニズムという「創造された伝統」が、強力なメシア的宗教熱と再融合する決定的瞬間であった。それまで、特に労働シオニズムは世俗的な運動であり、国民宗教党(NRP)でさえ、国家の存在を直ちにメシア的救済と結びつけることには慎重であった 。しかし、エルサレム奪還を含む圧倒的勝利は、多くの人々にとって奇跡と映り、メシア的な歴史解釈に経験的な「証拠」を提供した。

これにより、世俗国家の軍事的行動が、神の預言の成就として再解釈されるようになった。この解釈から生まれたのがグッシュ・エムニムであり、彼らは土地への入植というナショナリズム的目標と、それがメシア的救済のプロセスの一部であるという宗教的信念を一体化させた 。「大イスラエル」のイデオロギーは、こうして変容を遂げた。もはやそれは単なる修正主義者の政治スローガンではなく、熱心で行動的な一部の国民にとっては、神から与えられた戒律となったのである。この「再聖化」のプロセスは、入植プロジェクトに、純粋な安全保障論だけでは決して得られないようなイデオロギー的な強靭さと推進力を与えた。こうして、「虚構」は、神の御業と認識された出来事に基づき、強力な新たな章を書き加えたのである。

入植地拡大、国際法、そして併合政策

1967年の第三次中東戦争以降、イスラエルは占領したパレスチナ領土において、国際法に違反する形でユダヤ人入植地の建設と拡大を継続的に進めてきた。この政策は、単なる治安維持や人口増加への対応ではなく、「大イスラエル」というイデオロギーを物理的な現実に変え、パレスチナ国家の樹立を不可能にすることを目的とした、計画的な領土併合プロセスである。

入植地拡大の歴史

入植活動は1967年の戦争直後から始まった 。当初、労働党政権下では、前述の「アロン・プラン」に基づき、ヨルダン渓谷や大エルサレム圏など、安全保障上重要と見なされ、かつパレスチナ人の人口が希薄な地域に限定して入植地が建設された 。

しかし、1977年にメナヘム・ベギン率いるリクードが政権を握ると、入植政策はイデオロギー的な性格を強め、パレスチナ人の人口密集地に近い山岳地帯やサマリア地方西部など、ヨルダン川西岸全域へと拡大した 。世界シオニスト機関が策定した「ドロブレス計画」などは、パレスチナ国家の成立を阻止することを明確な目標として掲げ、大規模な入植地網の青写真を描いた 。

1990年代のオスロ合意による和平プロセスも、この入植活動を止めることはなかった。むしろ、和平交渉が進む間も、イスラエル政府は「自然増」を理由に数千戸の住宅を新たに建設し、1993年から2000年の間に西岸地区(東エルサレムを除く)の入植者人口は約100%増加した 。今日、西岸地区と東エルサレムには70万人以上のイスラエル人入植者が居住しており、入植地はパレスチナ人社会を分断し、孤立させる巨大なインフラとなっている 。

国際法における入植地の違法性

国際社会は、イスラエルの入植活動が国際法に違反するという点で、ほぼ完全に一致した見解を持っている。その法的根拠の中心となるのが、1949年のジュネーヴ第四条約第49条である。この条項は、占領国が自国の文民の一部をその占領する領域に移送し、または居住させることを明確に禁止している 。

この立場は、国連安全保障理事会(決議446、478、2334など)、国連総会、国際司法裁判所(ICJ)、赤十字国際委員会(ICRC)によって繰り返し確認されてきた 。特に2016年の安保理決議2334は、入植活動が「国際法に対する露骨な違反」であり、「法的有効性を持たない」と断じている 。また、2024年のICJの勧告的意見は、入植地の違法性を再確認し、イスラエルに対し占領を終結させ、入植活動を停止し、全入植者を撤退させるよう求めた 。

イスラエルの反論とその否定

イスラエル政府は、ジュネーヴ第四条約の適用可能性を否定するために、いくつかの独自の法的議論を展開してきた。主な主張は、(1) ヨルダン川西岸は、1967年以前に国際的に承認された主権国家に属していなかったため、「占領地」ではなく「係争地」である、(2) 条約が禁止するのは「強制的」な住民の移送であり、ユダヤ人の入植は自発的なものである、というものである 。

しかし、これらの主張は国際法学界および国際社会からほぼ完全に退けられている 。占領の定義は、当該領域の以前の主権の有無には依存せず、他国の領域を軍事力によって実効支配しているという事実に基づくとされる。また、第49条の禁止は、移送が強制的か自発的かにかかわらず、占領地の人口構成を変化させることを防ぐための絶対的なものと解釈されている 。

ネタニヤフ時代:事実上の併合から法的な併合へ

ベンヤミン・ネタニヤフが長期にわたり首相を務めた時代は、入植地拡大が加速し、「大イスラエル」の理念が、事実上の併合(de facto annexation)から法的な併合(de jure annexation)へと移行する動きが顕著になった。ネタニヤフ政権は、二国家解決を公然と拒否し、「現場の事実」を創り出すことでパレスチナ国家の物理的な基盤を破壊し続けた 。

特に、ベザレル・スモトリッチやイタマル・ベン=グヴィルといった極右政治家が連立政権の主要閣僚となると、併合への動きはさらに露骨になった 。彼らは、西岸地区の行政権限を軍から文民(スモトリッチ自身が兼務する国防省内の担当相)に移管し、入植地とイスラエル本土との法的な区別を曖昧にすることで、主権適用の既成事実化を図っている 。

国際社会の対応(米国とEU)

国際社会の対応は、このイスラエルの政策を抑止するには至っていない。米国の政策は政権によって揺れ動いてきた。歴代政権は公式には入植を和平の障害と見なしてきたが、ドナルド・トランプ政権は、入植地は国際法に違反しないとの見解を示し、事実上イスラエルの政策を追認した 。ジョー・バイデン政権は、入植地を違法とする伝統的な立場に回帰したが、トランプ政権の政策(エルサレムへの大使館移転など)の多くを覆してはおらず、イスラエルへの強力な軍事・外交支援を継続している 。

欧州連合(EU)は、一貫して入植地を国際法違反と見なし、その拡大を非難してきた 。近年では、入植地製品のラベリング表示の義務化や、入植地との貿易を禁止する措置を求める動きが一部の加盟国から出ているが、EU全体としてイスラエルに実質的な圧力をかけるまでには至っていない 。

イスラエルの入植プロジェクトは、「忍び寄る併合(creeping annexation)」あるいは「スローモーションの併合」として機能している。これは、官僚的・法的なシステムを駆使して「大イスラエル」の目標を達成しつつ、その最終的な意図についてはもっともらしい否認の余地を残す戦略である。西岸地区全体の公然たる併合は、国際的なコストや「人口問題」(パレスチナ人に市民権を与えればユダヤ人国家の性格が揺らぐというジレンマ)を考慮して、繰り返し議論されながらも最終的には回避されてきた 。

その代わりに、歴代政権は土地を「国有地」と宣言したり、軍事命令で没収したり、入植者専用のバイパス道路を建設したり、入植者とパレスチナ人に別々の法体系を適用したりといった多様なメカニズムを用いて、パレスチナの土地の支配を確立してきた 。これにより、パレスチナ領土は分断され(「スイスチーズ」状になり)、入植地ブロックはイスラエル本土と一体化し、将来のパレスチナ国家の存立を物理的に不可能にしていく 。

このプロセスは漸進的である。一つ一つの住宅建設や道路敷設は小さな一歩に見えるが、それらが積み重なることで、併合の本質である恒久的な支配という戦略目標が達成される 。この「忍び寄る併合」は、イスラエルが最大主義的な目標を追求しつつ、突発的で劇的な行動に対してより強く反応しがちな国際社会の反発を管理することを可能にしている。「大イスラエル」の「虚構」は、壮大な宣言によってではなく、百万の官僚的決定と千台のブルドーザーによって、日々現実のものとなりつつある。

批判的視座 — 脱神話化の試み

「大イスラエル」というイデオロギーと、それがもたらした占領・入植という現実は、イスラエル内外から多様な批判的視座に晒されてきた。イスラエルの「新歴史家」による建国神話の脱構築、入植者植民地主義という分析的枠組みの適用、イスラエル国内の人権団体による占領の実態告発、そしてパレスチナ人自身の抵抗と主張は、それぞれ異なる角度から「大イスラエル」の正統性に異議を唱えている。

「新歴史家」たち

1980年代後半、ベニー・モリス、イラン・パペ、アヴィ・シュライムといったイスラエルの歴史家たちが、機密解除された公文書を用いて、イスラエルの公式な建国史観に挑戦した 。彼らは「新歴史家」と呼ばれ、特に1948年の戦争とパレスチナ人難民の発生に関する通説を覆した。公式史観では、パレスチナ人はアラブ指導者の呼びかけに応じて自発的に避難したとされていたが、新歴史家たちは、イスラエル(当時はシオニスト民兵組織)による意図的な追放や、戦闘によって引き起こされた恐怖が難民化の主因であったことを明らかにした 。

ただし、新歴史家たちの間でも見解は一様ではない。モリスは、追放はあったものの、それは戦争の熱気の中で行われたものであり、事前に計画された民族浄化ではなかったと結論づけた。後に彼はさらに保守的な立場へと後退し、追放は不可避かつ正当であったとさえ示唆するようになった 。対照的にパペは、シオニスト指導部による計画的な民族浄化であったと断じ、シオニズムそのものを入植者植民地主義として批判する立場を鮮明にしている 。

入植者植民地主義という枠組み

近年、学術界ではシオニズムを「入植者植民地主義(settler colonialism)」の枠組みで分析するアプローチが影響力を増している。この理論は、天然資源の収奪を主目的とする古典的な植民地主義と、入植者が先住民に取って代わって恒久的な社会を築こうとする入植者植民地主義とを区別する 。後者は、先住民を排除するための「排除の論理(logic of elimination)」に基づいているとされる 。

この枠組みを適用する論者たちは、シオニズムが単なる民族解放運動ではなく、ヨーロッパからの入植者がパレスチナの先住民を排除し、新たな国家を建設するプロジェクトであったと主張する 。彼らは、ヘルツルやジャボティンスキーといった初期のシオニスト指導者自身が、自らの事業を「植民(colonization)」という言葉で表現していたことを指摘する 。この視点から見れば、1948年のナクバや1967年以降の入植地拡大は、偶発的な出来事ではなく、シオニズムというプロジェクトに内在する構造的な衝動の現れと解釈される。

イスラエル国内からの異議

イスラエル社会の内部にも、占領と入植に反対し、その実態を記録・告発する活発な市民社会が存在する。「ピース・ナウ」(Peace Now)は、入植地の拡大を監視し、その情報を国内外に提供することで、政府の政策に異議を唱えてきた 。「ベツェレム」(B'Tselem)は、占領下におけるパレスチナ人の人権侵害を詳細に記録する人権団体であり、その報告書は国際機関やメディアで広く引用されている 。

近年、ベツェレムは、イスラエルがヨルダン川から地中海までの全域で、ユダヤ人に優越的地位を与える「アパルトヘイト体制」を敷いていると結論づける報告書を発表した 。これは、占領が一時的なものではなく、恒久的な支配と差別の構造であることをイスラエルの主要な人権団体が公式に認めたという点で、極めて重要な意味を持つ。

パレスチナ人の応答

パレスチナ人の側からの応答は、当然ながら多岐にわたるが、主要な二つの潮流を挙げることができる。

これらの多様な批判的視座は、異なる出発点(歴史学、社会理論、人権法、当事者の経験)から出発しながらも、一つの核心的な点において収斂する。すなわち、シオニズム・プロジェクトが掲げる「最大版図におけるユダヤ人人口の多数派維持」という目標と、「普遍的人権、国際法、そして民主主義」の諸原則との間には、根本的な非両立性が存在するということである。

新歴史家たちは、ユダヤ人多数派国家を創設するためには、建国の際の追放(ナクバ)が戦争の偶然ではなく構造的な必然であったことを明らかにした 。入植者植民地主義の枠組みは、この「排除」の論理(物理的でなくとも人口構成上の)がプロジェクトに内在していると論じる 。そして、ベツェレムによる占領下の日常生活の記録—土地の没収、移動の制限、二重の法体系—は、この構造的支配が現代において継続している経験的証拠を提供する 。彼らが「アパルトヘイト」という言葉を採用したのは、この証拠から導き出される論理的帰結に他ならない 。

したがって、「大イスラエル」への批判は、単に地図上の国境線に関する議論ではない。それは、そのイデオロギーを維持するために必要とされる政治構造そのものへの批判である。「虚構」は、必然的に不平等の現実を要求する。だからこそ、これらの多様な批判的枠組みは、それぞれ異なるアプローチを取りながらも、かくも類似した、そして痛烈な結論に至るのである。

結論 — 「宗教的正統性」の崩壊と政治的イデオロギーとしての「虚構」

本報告書は、「大イスラエル」という概念を、その神学的淵源から現代の政治的現実まで、歴史的・批判的に検証してきた。この分析を通じて、当初の問いであった「『大イスラエル』の虚構の妥当性」と「崩壊した『宗教的正統性』の是非」について、以下の結論を導き出すことができる。

「宗教的正統性」の崩壊

「大イスラエル」の主張の根幹をなす「宗教的正統性」は、二重の意味で崩壊している。

第一に、その主張は、聖書テクストの恣意的かつ脱文脈的な読解に基づいている。本報告書が第二章で詳述したように、旧約聖書は「約束の地」について、単一の、首尾一貫した地理的定義を提示していない。創世記の広大なビジョン、民数記の限定的な境界、エゼキエルの終末論的な幻視は、それぞれ異なる文脈と神学的意図を持っており、相互に矛盾さえしている。近代の政治イデオロギーが、これらの多様な記述の中から自らの目的に合致するものだけを選択し、絶対的な領土権の根拠とすることは、テクストに対する誠実な解釈とは言えない。さらに重要なのは、土地の所有が神の律法への服従と正義の実践という条件に結びついているという、聖書に内在する強力な倫理的・神学的対抗言説を完全に無視している点である。無条件の神権を主張することは、聖書そのものが課す道徳的責任を放棄する行為に他ならない。

第二に、「大イスラエル」という現代の政治概念は、古代の宗教的伝統の直接的な継続ではなく、19世紀ヨーロッパのナショナリズムという、全く異なる歴史的文脈の中で「創造された伝統」である。テオドール・ヘルツルに始まる政治シオニズムは、本質的に世俗的なプロジェクトであり、ヨーロッパにおける「ユダヤ人問題」を解決するために、近代的な国民国家を建設することを目的としていた。その過程で、古代の宗教的シンボルや物語が、国民意識を形成し、パレスチナへの領土的主張を正当化するための政治的ツールとして動員された。神への言及は、神学的な真理の探究ではなく、政治的な目的を達成するための手段であった。したがって、その「正統性」は宗教に由来するものではなく、近代ナショナリズムのイデオロギーに由来するものである。

「虚構」としての政治イデオロギーの現実的効力

「大イスラエル」の宗教的・歴史的主張が、構築された「虚構」であるとしても、その「虚構」が現実世界に及ぼしてきた影響は計り知れないほど甚大である。イデオロギーは、それが真実であるか否かにかかわらず、人々を動員し、歴史を形成する力を持つ。

この「虚構」は、1967年以降の入植者運動にとって、自らの行動を神聖化し、あらゆる困難を乗り越えるための強力な動員力となった。それは、国際法(ジュネーヴ第四条約)の明白な違反である入植地建設を、「聖なる土地の解放」として正当化する言説を提供した。それは、パレスチナ人の追放と土地の収奪を、神の約束の成就という壮大な物語の中に位置づけることで、倫理的な問いを覆い隠してきた。そして今日、それは二国家解決という国際的なコンセンサスを拒否し、永続的な占領と併合を推進するイスラエル右派の政治的基盤となっている。

このように、「大イスラエル」の「虚構」は、パレスチナ人にとっては土地、財産、自己決定権を奪う破壊的な現実として機能し、イスラエル・パレスチナ紛争を解決不可能なものにしている主要な障害の一つであり続けている。

最終的評価

結論として、「大イスラエル」は、一部の過激派が抱く周縁的な夢想ではなく、今日のイスラエルにおいて支配的な政治イデオロギーの中核をなす、あるいは少なくともその政策に深く浸透した要素であると評価せざるを得ない。それは、神話化された「全土」への権利を、そこに住むすべての人々の権利よりも優先させることで、永続的な紛争と構造的な不正義の現実を創り出してきた。

皮肉なことに、このイデオロギーは、自らが正統性の源泉として依拠すると主張する聖書のテクストの中に見出される、正義、公正、そして寄留者への配慮といった倫理的・道徳的要請とは正反対の現実を生み出している。その意味で、「宗教的正統性」の崩壊は、単なる学術的な分析の結果に留まらず、イデオロギーがその内実において、自らが掲げる理想を裏切っているという倫理的な破綻をも示しているのである。